岡山市立石井中学校
昭和32年(1957)卒業生のアルバム

 岡山駅の西口 (裏駅と呼ばれていました) から三門(みかど)までの広い地域は、ほぼ全域がかって「四中」(岡山第四中学校)と呼ばれた石井中学校の学区でした。
 このホームページは六十年以上も昔に、この石井学区で子供の時代を過ごした昭和32年岡山市立石井中学校卒業生の手によるページです。


作詞 森谷弘光 作曲 水田茂昭・秋吉稔

 校歌の歌詞は、一番の最後がもともと「千余人」だったのですが、生徒数が急増したため千余人ではおかしいとの森谷校長の一言で「千二百」に替わり、卒業後は「千三百?」、最後の数字「千三百」を何と読んだかはわかりません。今(平成29年)は再び千余人に戻っています。 しかし、二番の歌詞の冒頭「ああ西空に」は「ああ中空に」に変わっています。創立の頃は、石井中が在った三門は岡山市の西の端、これより先は御津郡でした。
 なお、この歌詞の写真は第8回卒業生の卒業アルバムに貼られていたもので、元は筆書きで印刷されていたのですが森谷校長から草書体の崩し方が間違っているとのお叱りを受け、急遽活字に直して上貼りされたものです。 
1. 三門の國神社から見た昔の石井中学校と石井学区


昭和32年頃の石井中学校、この写真は拡大できます

 石井中学校の右上に少し見えているのは三門小学校、水田の彼方に霞んでいる柱は国鉄岡山操車場の照明灯、その手前の集落は高柳辺りだと思います。 当時の三門周辺は広大な水田地帯、校舎の北側に隣接して国鉄吉備線の線路があり気動車(ジーゼルカー)が導入され始めていましたが、朝夕のラッシュ時間帯などにはSLが客車を牽引して走っていました。
 石井中がこの場所に移ってきたのは昭和24年ですが、その前は四中と呼ばれて石井小学校に隣接する旧岡山市民病院跡の建物 (その後幼稚園になったようです)を使っていました。
 写真に写っている校庭のポプラは石井小学校の校庭のポプラを挿し木して育てたものです。
(使用カメラは蛇腹式BabySemi、 フィルムはネオパンFのブローニー版、この写真は2回クリックすると大きく拡大できます) 


同上

(上の写真) 石井中学校の東側もまだ水田地帯、元は畳表用のイグサ田、さらに明治の頃は蓮池でした。正面の山は金甲山、その手前に霞んだ児島湾も見えています。手前の県道には自動車の姿は無く、唯一自転車が一台か二台走っているだけです。


昔の岡山市街の展望 昭和32年頃 この写真は拡大できます

  国神社から岡山駅方向の展望です。 真ん中の黒い屋根が石井小学校 (北校舎と講堂の屋根が見えています)、左奥が市中心部、右端はカバヤの工場、左の日進ゴムの煙突の左が完成したばかりの岡山県庁新庁舎、その左手前が旧岡山駅です。
 真下に見える水田右側の細い道は国神社の前を通る旧西国街道畷町(なわてちょう)から奉還町通りを経て万町(よろずちょう)の踏み切りに続いていました。


昔の岡山市(昭和32年頃)、上の写真の更に左に続く東方向の展望です、手前の山は三門妙林寺(日蓮宗)の墓地、この写真は拡大できます 

2. 昭和32年から40年頃の石井中学校舎の写真
入口 内容
1  昭和32年の校舎と校庭、左の写真をクリックすると
 アルバムが開きます
2  昭和32年頃の音楽教室と理科教室
3  卒業から10年ほど経った昭和40年代の石井中学校の様子です 
 昔(在校当時)の名残がまだ残っていました

3. 昭和32年卒業生在校当時の写真
入口 内容
1  昭和31年5月、伊勢・京都方面への修学旅行
 左の写真をクリックするとアルバムが開きます
2  昭和31年7月25〜26 伯耆大山登山
3  昭和31年秋の体育祭
4  昭和31年秋、11月9日(金)の旅行、赤穂御崎
5   昭和32年1月から3月頃の石井中学校職員室と3年A組の写真です 
6  当時の先生方の写真と各クラスの写真
7  その他の写真
8    当時の資料
4. 同窓会
入口 内容
1  卒業直後 
2  2001年2月岡山国際ホテル 
5. リンク・学区内の昔の風景、昭和四十年頃の写真など
入口 内容
1  石井小学校の思い出 
2  昭和40年頃の岡山市内の風景です
3  昭和初期の岡山の風景です